あの手この手

 あるアメリカの保険会社のCEOが来日し、やれマスコミのインタビューだの表敬訪問だの社内会議だので大忙しのスケジュールをこなしている中、ある日の午後、何故か3時間ほどぽっかりと時間が空いた。ひっきりなしのミーティングが続いた後だったので、ホテルに帰って休みたいか、と秘書に尋ねられた彼は高らかに”I want to get manicured!”と宣言。さては女装趣味に目覚めて爪を赤く染めたいのかと周りにいたスタッフを慌てさせたが、実はその心は「爪の手入れをしてもらいたい。」アメリカ人のエグゼクティブの多くが身だしなみの一環として爪の表面をきれいに磨いていることをご存じだろうか。

 maniはラテン語で「手」を意味する。手をケアするのがマニキュアというわけだ。マニで始まる言葉と言えば最近はやりのmanifesto。元々イタリア語で、物事を明らかにすると言う意味のmanifestから来ているが、さらにその語源をたどると「現行犯で捕まる」”caught red-handed” なのだそうだ。殺人現場で手を血で真っ赤に染めていたら、明らかに犯人。政治の世界でも公約違反があったらしっかり犯人探しをしてこそ、本物のマニフェストということだろうか。

 ある会議で女性が議長に選出された。それまで発言を求めるのに”Chairman!”と声を上げていた参加者がふざけて”Chairwoman”と呼びかけたのを、一人の紳士がたしなめた。曰く「chairmanのmanは男性のことではなくラテン語の手。すなわち椅子を手で持つ人が語源なので性別は関係ないのですよ。」会場の参加者もブースの中の通訳者達もほおと感心したものだ。でもこんな博識の士がどの会議にもいるわけではないので、女性の議長が増える中、語源的には誤用のchairpersonがはびこり、さらなる短縮形まで現れた。”Chair!”と叫ぶ人がいたら決してあなたが椅子に見えているわけではなく「議長!」と呼びかけているのだ。ただあなたが議長でない場合は・・・はて?

(「毎日フォーラム 日本の選択」2009年8月号掲載)

「あの手この手」への2件のフィードバック

  1. Chairman
    楽しく拝読しております。
    Chairmanの語源、とても興味深く読みましたが、ふと好奇心から辞書を引いてみたところ、-man < manusという説明をつけているものがなかったので、差し出がましくもコメントいたします。(参照したのはShorter Oxford、Merriam-Webster Collegiateほかです。)
    説が複数あるのかもしれません。

  2. Chairman
    初めまして、コメントをありがとうございます。
    こんなタイミングの公開になってしまってすみません。会議通訳者は季節労働者なので秋のシーズンは全く余裕がないのです。

    Chairmanの語源も諸説あるようで、etymology を扱うサイトではラテン語説を否定して man は人間を意味するので gender-specific ではないと説明しているところもあります。この記事を書いたときは英語版 Wikipedia で確認しました。引用元の文献が記されていたので、manus 説の学者さんもいらっしゃるということなのかな、という程度の判断で、それ以上踏み込んだ検証はしていません。

    これからもよろしくご愛読下さい。

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