あるネットワークセキュリティ会議の後、若い参加者がこっそりと「さっきの熊の話、どういう意味ですか?」と尋ねてきた。まわりの年上の参加者達が皆当たり前のように了解していた(ように見えた)ので、社内の人に聞くのが恥ずかしかったらしい。講演者はスキルの低いハッカーへの対策として You don’t have to outrun the bear. 「熊より速く走る必要はない」と言ったのだった。
「三本の矢」と聞いただけで、日本人であれば毛利元就の逸話(フィクションらしいが)全部を想起する。同様に英語にも定番のたとえ話がある。営業研修の常連 two shoe salesmen と言ったら、アフリカの某国に送られた二人の靴の営業マンの話だ。一人は「絶望的、この国では誰も靴を履かない」もう一人は「宝の山だ、まだ誰も靴を履いていない」という電報を本国に送った。営業マンとしての positive thinking を端的に説明するのに使われる。
同様の例えに Is the glass half empty or half full? コップの水が「半分しか残っていない」と取るか「半分も残っている」と取るかというのもある。ただどちらも新人研修でもないかぎりフルバージョンにお目にかかることはまれだ。誰もが知っている言わずもがなの話なので、丁寧に説明するのはかえって野暮ったいのだ。でも海外で使う時には事前に認知度を測って欲しいと思う。
冒頭の熊の話も良く知られたジョークだ。二人の男が猛獣にばったり出くわし、一人が悠々と靴ひもを結びだしたのを見たもう一人が「何をやっているんだ、どうせ逃げおおせるわけがない。」立ち上がった男は気の毒そうに答えた。「熊より速く走る必要はない。君より速く走れれば充分なんだよ。」幼稚なハッカーも空き巣と同じ、その対策には隣の家より鍵が一つでも多ければ良い、という論理だったのである。
(「毎日フォーラム 日本の選択」2012年7月号掲載)