午後一時半くらいにランチョン・ミーティングでの通訳を含めた一本目の仕事を終え、次の現場に移動する途中、腹ごしらえをしておこうとたまたま目にとまったラーメン屋に入った。時間も時間なので店内は空いていて客は3組くらい。通路を挟んだ向かいのテーブルは女性のおひとり様だ。彼女の席にラーメンが運ばれて来る。人の食事風景をまじまじと眺める趣味はないので、私は午後の資料に目を落とした。
数分後、とてつもない違和感に襲われて彼女に視線を戻した。最初はその正体が分からず当惑したが、やがてはたと気が付いた。その女性はいっさい音をたてずにラーメンを食べていたのである。
食を巡るマナーは多様だ。中国では出されたものを完食したら「足りなかった」の意味でホストに気を使わせてしまうそうだし、韓国ではご飯茶碗を持ち上げて箸で食べてはいけない(テーブルに置いたままスプーンで食べる)。欧米ではスープは音をたてずに eat 食べるものだし、パスタをずるずるとすする slurp なんてもってのほかだ。もちろん日本でも、スパゲティをすすり込んだりくちゃくちゃ音をたてて食べるのは大ひんしゅくものだ。
ところがそば・うどんのたぐいやラーメンは、ずずずっとすする。上手い落語家が手ぬぐいをどんぶりに、扇を箸に見立ててそばをすする音を聞くと、見ているこちらまでお腹が空いてくるではないか。音も含めておいしさが構成されているのだ。美味しそうに食べることも立派な食事のマナーだと思う。
ある通訳仲間の夫はフランス人だ。日本に長く暮らしている彼の好物の一つがラーメン。「じゃあ、家族でラーメン屋さんに行ったりするの?」と尋ねたら「私は絶対一緒に行かない」という意外な答えが返ってきた。「ラーメン、嫌いなの?」「ううん、大好き。だから一緒に行くのは嫌なの。だって、音たてないで食べるのよ。不味そうで許せない!」
(「毎日フォーラム 日本の選択」2010年12月号掲載)