腕の長さの距離感

 会議では実際に通訳をする前に講演者と打ち合わせ briefing の時間を設定してもらうことが多い。通訳者はコミュニケーションのプロではあっても会議のテーマ subject matter のプロではないので、いただいた資料を自分なりにどんなに勉強しても分からない部分が残る。それを確認したり同席する専門家に訳語を教えていただいたりする、とても大事な時間だ。

 ある時、講演者に同僚と私の間に座ってくれるようお願いしたら、何故か私と肩が触れあうくらいの距離に座られてなんとも居心地の悪い思いをしたことがある。後から「近くなかった?」と同僚にこぼしたら「にじりよられてたよ」と面白そうに笑われた。快適な距離の感覚が少々異なる講演者だったのだ。

 文化人類学者のエドワード・ホールが動物行動学を応用して定義した個人空間 personal space によれば相手との距離 45cm 未満は密接距離 intimate distance と言ってほとんどスキンシップの距離。初対面の相手では落ち着かないのも無理はない。個人的な会話の適正距離は個人距離 personal distance と言い 45~120cm。「手を伸ばせば届く距離」と説明されたりすると、なんだか仲が良さそうだ。

 ところが at arm’s length というイディオムは、腕の長さだから親密なのかと思いきや「距離を置く」という意味になる。グループ会社間の取引を対等な関係として行うとか、公務員が家族や友人を優遇しないとか、とても腕の長さでは足りないくらいのよそよそしさだ。いったい腕って、長いの、短いの?

 ある日うちで飼っている猫のくつろぐ姿があまりにも可愛くてついついかまいたくなり顔を近づけたら、頬に肉球がぴたっと張り付いてきた。猫はそのまま「邪魔しちゃいや~」とばかりに思いっきり両腕を突っ張って顔をそむける。これが arm’s length の正体だ。腕を伸ばした長さとは個人距離の範囲で、安易になれなれしく立ち入ってはいけない距離なのである。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2011年5月号掲載)

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