ノーベル賞を巡る日本語の冒険

 今年は2人の日本人科学者がノーベル化学賞を受賞した。これで1949年の湯川秀樹以来、日本は18人のノーベル賞受賞者 Nobel Laureates を輩出したことになる。そのうち2008年物理学賞の南部陽一郎博士は49歳で米国籍を取得しているので正式にはアメリカ人受賞者にカウントされるが、受賞対象の研究は日本時代に行われた。

 隣国中国では民主活動家の劉暁波氏が平和賞を受賞した。かの国の検閲によってその公式な報道はいっさい無い。それでも中国伝統の「小道消息」口コミで、多くの国民が本当はそのことを知っている。しかしネット掲示板への書き込みも厳しく監視されているのでそのことは書けない。そこで、何故日本人は受賞できて中国人には出来ないのか、と言う議論が沸騰したそうだ。結論は「関係当局の責任」。

 2年前、南部博士を含む4人の日本人がノーベル賞を受賞した時、もう一つの隣国韓国でも同様の議論があったと聞いた。さまざまな分析がなされる中、韓国日報のコラムは日本の豊かな翻訳文化が背景にあると指摘。公共放送KBSテレビも韓国内の英語熱を取り上げたドキュメンタリーの中で、日本の科学者は翻訳により国際的な学術にアクセスできたと説明している。韓国の大学では物理・化学・数学などの基礎科学は翻訳せずに英語のまま学ぶため、それらの主要なコンセプトがすとんと腑に落ちない。つまり、イノベーションにつながるような深い思索が出来ないのだという。

 学生時代に翻訳のアルバイトをしていた会社に、インターナショナル・スクール出身の同僚がいて、バイト仲間は一様にバイリンガルの彼女を羨ましがっていた。そんな彼女がある日ため息をついて漏らした言葉を私は今でも忘れられない。「英語も日本語も中途半端で、私には哲学が出来ないの。」 日本の科学者達は幸運にも、それぞれの領域で好きなだけ深く、母語で哲学が出来たからこそ、大きな成果を残せたのだと思う。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2010年11月号掲載)

そんなつもりでは・・・

 ”Get out of here!” という大声が聞こえて、すわ、喧嘩か?と周りを見回してみても、目にはいるのは楽しそうに談笑する人たちばかり。いったい何が起こったのだろう。

 日本語でももちろんそうだが英語にも文字通りの意味と全く異なるニュアンスでも用いられる表現がある。相手の言ったことが聞き取れなくて繰り返して欲しい時に用いると習った “I beg your pardon?” は主語の I が消えてしまうくらい早口で言わないとその意味にならない。ゆっくり発音すると「もう一度言ってごらんなさい」つまり「なんて失礼な」になってしまう。

 逆に会話の途中で “Come again?” と言われたら、「もう一度言って」の意味。「また後で来てみて」と言われたと思って “All right.” なんて言いながらその場を立ち去ってしまったりすると、相手は何が気に障ったのかと大いに気をもむことだろう。

 昔、アメリカの sitcom コメディ・ドラマで “Excuse me!” を連発するキャラクターがいたのを覚えている。「エクスキュ~~~ズ・ミー」と憎たらしい調子で言い捨てるのは「悪うございましたね」といじけてみせる表現だった。また pardon と同じように相手の言葉にむっとしている時にも使う。会議の席で発言を求めて「すみません、ちょっといいですか」くらいのつもりで “Excuse me, chair.” などと言うと、それまでの議論に反論するか、議事進行に不満があるのかと勘ぐられる可能性がある。そういう時は “May I?” くらいが良い。

 廊下ですれ違いざまに同僚が “What’s up?” と言っても天井を見上げたりしてはいけない。「最近変わったことでもある?」と言う挨拶なので、たいして報告することも時間もなければ “Nothing much.” と答える。

 冒頭の “Get out of here!” も「出ていけ」ではない。半端じゃない朗報に「本当に?冗談じゃないの?」とか、のろけまくる新婚の同僚に「いい加減にしろよ、幸せな奴だな」と言う時の表現なのである。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2010年10月号掲載)

生まれ変わるなら・・・

 生まれ変わるとしたら男か、女か。誰でも一度は考えてみたことがあるテーマだと思うが、私は昔から絶対女の方が良いと思っている派だ。人生は平等ではない。現代では男の方が圧倒的に自由度が低い。

 特に欧米ではそれが顕著で「男子たるものかくあるべし」とばかりにいろいろと行動が制限されている。レディーファーストはその最たるものだろう。ドアを出入りするのも席に着くのも女性が先なので、私もしばらく出張などして譲ってもらうことに慣れてしまうと、帰国後エレベーターに乗ろうとするたびにおじさんとぶつかりそうになる。

 意外に思われるかもしれないが英語にも女言葉があって lovely、sweet、”Oh, my goodness!” などは男性が言うとおねえ言葉っぽく聞こえてしまう。また “She’s my girl friend.” 「女友達よ」と女性が言うのは頻繁に耳にするが、男性は “He’s my boy friend.” とは言えない。言ったら特別な関係の間柄だと判断される。

 ふつうの辞書には載っていない man date という言葉がある。スペースが空いているのは誤植ではない。アメリカ人男性がなぜか居心地の悪い気分になる男同士の時間の過ごし方を指す新語 neologism だ。2005年にニューヨーク・タイムズの日曜版で使われ話題になって以来、映画やドラマでも取り上げられている。たとえば男二人が公園を一緒にジョギングするのは平気だが、散歩だと微妙な空気になる。バーで食事をしながらビールやバーボンを飲むのはかまわないが、テーブルにキャンドルがともるレストランで向き合ってワインを飲むのは周りの目が気になる・・・。ゲイであることは決して悪いことではないが、ゲイでない男性 straight men は自分がゲイだと思われかねない行動を何としても避けなくてはならないものらしい。

 女性同士なら何とも思わないし思われないのに、男とは不自由なものだ。

 で、あなたは生まれ変わるとしたらどちらがいいですか?

(「毎日フォーラム 日本の選択」2010年9月号掲載)

手強い日本語

 同時通訳を行う場合、日 ⇆ 英双方向に訳すのを私達は当たり前のように思っているのだが、欧州の通訳者は複数の言語から自分の母国語へ一方向のみの通訳を行うのが一般的だ。確かにその方が聴衆の耳にはやさしい。しかし最近は母国語へ訳出するよりも母国語から訳した方が正確なのではないかという認識も生まれてきているそうだ。

 日本語の通訳者にとっては深く頷ける話である。日本語ネイティブでなくてはこのニュアンスは分からないだろうと思う表現には日常的にお目にかかるし、同じ日本人でも少々探りを入れないと判断が難しい言葉も多い。「味のある」が実は「下手な」をオブラートにくるんだ sugar-coated 表現だったり、「制度を見直した」というから手を入れたのかと思いきや、ただ見ただけで何も変わっていない場合があったりする。日本語は日本人にとってさえも決して簡単ではない。

 さらに通訳者にとっての鬼門は辞書に載っていない言葉、つまり業界特有の表現や社内用語だ。日本語に聞こえなかったりすることさえある。「アラバンテ」と言われて商品名かと思ったらサンドペーパーの肌理が粗いことを意味する「粗番手」coarse grade だった。駆け出しの頃、現場のおじさんの言う「チョーバン」が分からずまごまごしていたら「こんなのも知らんのか」と指さされたのが蝶番 hinge だったこともある。化学薬品や医薬品の世界で当たり前のように使われる「ジョウシゴ」は「上市」 market launch という業界用語を知らないと「上市後」という漢字が浮かばない。

 証券アナリスト向けの説明会で関西の保険代理店の経営者が「うちにもようけヨウカイがいてましてな」とおっしゃった時には本当に固まった。ヨウカイって、溶解? いや、いてましてって言った。じゃあ、妖怪? 一反木綿とかぬらりひょんとか、出るの、代理店の店先に?

 ・・・ 正解は要改善先(保険加入率の低い顧客企業)の略でした。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2010年8月号掲載)

ジュネーブにあるとある国際機関の会議場
後方上階にずらりと並ぶ各国語の通訳ブース

通訳ブースから会議場を見下ろす

参加者の席にはマイクとヘッドセットが

二国を隔てる共通言語

 高校時代アメリカに留学した時、ジャムが jam ではなく jelly で、ゼリーが jello だと知ってショックを受けた。アメリカ人の大好物ピーナツバターはイチゴのジャムと一緒に使うと歯の裏にくっつかないので、両方はさんだ peanut butter & jelly のサンドイッチが定番だ。どうして日本ではジャムというのかしら、と帰国後気になって調べてみたらイギリス英語だと分かって驚いた。英語が単一の言語ではないことを知った瞬間である。

 英国人から「東京の underground 網」と言われてどんな地下組織のことかと首を傾げたら「tube のことだよ」と説明されて、なかなか地下鉄には思い至らなかったこともある。アメリカ人が使う subway もイギリスでは地下道だ。『マイ・フェア・レディ』の原作で知られるノーベル賞作家バーナード・ショーをして「英米は共通言語によって分かたれた二国」と言わしめた両言語の違いは未だ健在だ。

 ある国際会議でアメリカ代表が「その議論は table 棚上げすべきだ」と提案したところ、イギリスが「いや、その議論は時期尚早だ」と応じて混乱したことがあった。英国で table は議案を討議の対象にすることを意味するからだ。英語の世界で誤解しあっている分には通訳者には何の責任もないので面白がって見ていられる。休憩時間は各言語の同僚達とその話題で盛り上がった。みんな集中力を要する仕事で疲れているのでそういう時の話は少々きわどい方向に走るのだが、知らずに使ってしまって恥ずかしい思いをするのもこういう表現だと思うので、あえてご紹介しよう。

 ズボンつりのサスペンダーは英国では女性のガーターベルトの意味になるので “He wears suspenders” はちょっとまずい。”Have you got a rubber?” は英国ならば「消しゴム貸して」だが米国では「コンドームある?」なので教室で大声で言うのはまずい。朝寝坊の同僚を起こしてあげたはずの “I knocked her up” も米語では「妊娠させちゃった」なので、これはもっとまずい。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2010年7月号掲載)