なんてオーバーな!

 春の訪れは急だった。予算オーバー overspend して買った分厚いオーバー overcoat はもう必要ない。オーバー exaggeration でなく長くて寒い冬だった。毎日のようにカイロのお世話になったのも決してオーバー over-reaction ではなかったと思う・・・というようにオーバーを訳そうと思うと一筋縄ではいかない。

 一方英語の over には便利な合成語 compounds が多い。日本以上に失業問題が深刻なアメリカでは大学を卒業しても就職がままならず、最近ではいっそ高卒で仕事に就いてしまう方が良いのではないかという議論があると聞いた。ピザ屋の店員に応募してきた大卒者を体よく断る表現が You are overqualified for the job. 「あなたには役不足ですよ」(この日本語表現も誤解が多いらしいが、役の方が不十分の意味なので、「私では役不足です」という謙遜は成立しない)。ドレスコードがビジネス・カジュアルの会合に一張羅で出かけて浮いてしまったら I’m overdressed. と反省する。

 基本的に under- と対義語になるが使用頻度が高いのは過大/過小評価の Don’t over-/underestimate me. 「買いかぶらないで/甘く見ないで」あたりか。予算やノルマ quota の過達/未達には over-/underachieve が使える。

 単独では距離を移動したり何かを乗り越えたりする意味になる。Come over here. にはわざわざここに来てもらう相手への若干のねぎらいがある。I’m totally over her. と言ったら「彼女のことはもう忘れたよ」。お気づきの通り、日本語のオーバーとほぼ同じ意味で使える表現は割と少ない。講演などで「時間をオーバーしてしまいました」 I’ve gone over my time. とあやまる時くらいだろうか。

 スポーツシーンで使われる It’s not over till it’s over. 「最後まであきらめるな」の over は完全に終わるという意味だ。だから「君はオーバーだな」のつもりで You are over. なんて言っては絶対にいけない。「おまえはもう終わりだよ」ととられてしまう。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2013年4月号掲載)

よく似た発想

 日本語と英語はその成り立ちが大きく異なるので、単語にしても慣用句 idioms にしても暗記するしかないと、学生時代にはご多分に漏れず単語カードのお世話になろうとした口だが、いかんせん根気がないもので作っただけで満足してしまい、本来の目的であるはずの繰ることをしないものだから、いつまでもきれいなままだった記憶がある。いわゆる暗記物が苦手な学生だった。

 その後、職業上毎日のように両言語の様々な表現に触れるようになると、確かに若干の違いはあるものの、根底にある発想がよく似たペアがたくさんあることに気付いて楽しくなってきた。寒いときに立つ鳥肌は goosebumps で直訳するとガチョウの吹き出物。羽をむしられた後の家禽の肌を見て同じことを考えたのだろう。婉曲表現を意味する「オブラートに包む」には砂糖でくるんでしまう sugarcoat を当てられるが、どちらもその対象は苦い薬だ。

 景気刺激策をカンフル剤と言ったりするが、a shot in the arm と注射で表現するとその即効性が感じられてぴったりだ。もちろん様々な要素のバランスを巧みに取ることが必須で、その危なっかしい様子が綱渡り。同じくサーカスに想を得た juggling act がうまくはまる。リスクが大きいと薄氷を踏む思いをすることになるが、英語では skate on thin ice と踏まずに滑ってしまう。

 スポーツに由来する表現も様々あるが、陸上部門からハードルをノミネートしよう。That’s a hurdle.そこが難問で・・・と言いたい時の定番でここまでは何の違いもないのだが「ハードルを上げる」となるとそうはいかない。ハードルは基本的に高さを変えるものではないので、ここは論理的に高飛びにたとえて raise the bar と言う。高くなった水準を満たすことが出来ずに失敗し落ち込んでいるところに追い討ちをかけられ踏んだり蹴ったりのことを「傷口に塩」と表現したりするが「怪我をしたうえに馬鹿にされる」 add insult to injury が同じ発想だ。

 釈迦に説法ほど恐れ多くはないものの、聖歌隊に説教しても詮無いこと preaching to the choir と、宗教は違っても人間の考えることに大きな違いはないようだ。有頂天とは仏教三界の真ん中、肉体は保ちながらも煩悩から解き放たれた人間が到達できる最上界を意味するそうだ。天国でも一番高いところにある seventh heaven にいると言うとその幸福感が伝わる。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2013年2月号掲載)

ニックネームの不思議

 英国のケンブリッジ公爵夫人はウィリアム王子との結婚前はケイト・ミドルトンと呼ばれていた。ロイヤル・ウェディングを境にキャサリンになったので不思議に思った人もいるかもしれない。Catherine は元々バリエーションや愛称 diminutive の多い名前で、ケイトもキャシーもキャットもケイトリンもそうだし、高校時代の友人には Cookie までいた。フランスではカトリーヌ、ロシアではエカテリーナとなるポピュラーな名前だ。ただ公爵夫人の場合、家族や友人からはずっとキャサリンと呼ばれていて、仕事の場でだけケイトと名乗っていたのをマスコミが何故かそちらに統一してしまっていたらしい。

 出生証明書に書かれた名前を欧米人は色々とアレンジして使うことが多い。Jeff だの Bill だの Tony だの、どの愛称を使うか(あるいは使わないか)は本人次第。それが自身のアイデンティティともなるのでこだわりも強い。この三人は決して Geoffrey や William や Anthony ではないのだ。ドラマや小説では本人の意思を無視して勝手な愛称で呼ぶおばさんなんかが、空気の読めないちょっとうざい登場人物の典型として描かれる。

 Elizabeth も変化形が多い。ベス、ベティ、リリー、リズ・・・まだまだあるが、エリー Ellie は意外なことに Helen か Alice の愛称だ。自由なようでいて一応のルールがあるのがかえってややこしい。しかも全部が短くなるわけでもなく、ジャネット Janet の元の形が Jane だったりする。

 ある米国企業のCEOのファーストネームは Dan と言う。ある程度親しい人はみんなそう呼ぶので、メールで Daniel と書いてきているのは自分のことを知らない人だから、中身を読まずにどんどん捨てるのだそうだ。ところがある日、訪問先で差し出した名刺をふと見るとダニエルとなっている。帰りのタクシーの中でそれを指摘すると「最初にダンで自己紹介したからいいんだ」と涼しい顔。名刺があるからと油断せず、初対面の相手が何と名乗ったか、しっかり聞いておく方が安全なようだ。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2013年3月号掲載)

楽しい言い間違いの世界

 ある会議で一緒になった通訳者達の中に小さい子供のお母さんが二人いて、昼食時の会話で盛り上がっていた。たまたま耳に入ってきたのが「機関車トーマスってそばとらないよね?」えっ、蕎麦?思わず振り向くと会話の相手も首を傾げている。言った本人もまわりの反応から自分の言葉を反芻したらしく「あ、いや・・・空飛ばないよね・・・。」一瞬の沈黙の後、大爆笑。

 言い間違いは誰にでもあるが、時にそれは秀逸なユーモアになる。何を隠そう私はそういうのが大好物である。ソバトラナイとソラトバナイのように文字を入れ替える anagram アナグラムという意図的な遊びはアルファベットでもあって、silence と license のような単語レベルもあれば、有名なハリー・ポッターの宿敵 Tom Marvolo Riddle が I am Lord Voldemort だったという謎解きにも使われたりする。

 文章として「空」「飛ばない」が「蕎麦」「取らない」になるのだととらえると Spoonerism 語音転換というれっきとした言語学上の名前の付いた言い間違いになる。初めてその言葉に触れたのはエラリー・クイーンを夢中になって読んでいた高校時代だった。推理小説の脚注にあった William Spooner なる Oxford 大学の学寮長が a crushing blow 痛烈な一撃を a blushing crow 赤面したカラスと言い間違えたという説明が可笑しくて、いつまでもけらけら笑い続けて親に心配されたので本編以上に印象に残っている。日本語の回文に通ずる言い間違いの楽しさを、米国の著述家リチャード・リーダラーは Spooner gave us tinglish errors and English terrors at the same time. 「くすぐられるような言い間違いと正統言語の危うさを同時に与えてくれた」と見事なスプーナリズムで評論している。

 パネルの参加者が「釈迦に念仏とは思いますが」と話し出した。「釈迦に説法」の言い間違いに違いない。でも、ひょっとするとどうせ分かってもらえないというあきらめから「馬の耳に念仏」とまぜちゃったのかも・・・、と思うと真意が分かるまで訳せないし笑えない。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2013年1月号掲載)

大丈夫か、ニッポン?

 全国80の医学部 medical schools のうち75校で学生の質が低下しているそうだ。試験不合格者や留年者 repeaters の増加に加え、授業中の私語がひどいらしい。そう言えばアメリカ人研究者がプラスチックの弊害について東京郊外のある大学で講義をするのを通訳したことがあるが、会場の階段教室 amphitheater は最初から最後まで学生の私語でざわざわざわざわしていて、一瞬たりとも静かになることはなかった。今時の大学生はこうなのかとあきれたが、医学部でさえそうだと聞くとさらに不安が募る。

 75校中65校は学力低下の原因にゆとり教育を挙げている。脱ゆとりが進みすっかり過去の遺物になった感のあるその理念とは「知識を詰め込む従来の教育を転換し、自ら問題発見をして解決策を探し出し、自ら主題を設定して学べる人間を育てる」ことだった。格好いい立派な作文だ。でもそれが出来るようになるにはある程度知識を詰め込んで、学ぶ姿勢を身につけておかないと無理だろうに、現場はひたすら脱詰め込みに突き進んだ。さらに育てるためにはそのための人材が必要だったはずだが、学校・教員サイドにその準備がなかった。実現可能性 practicability/fulfillment の検証不足による見切り発車が失敗の原因であるように思えてならない。

 同じ不安を覚えるのが小学校の英語教育必修化だ。ちゃんと教えられるように研修などは行われているのか、それとも見切り発車再びか・・・? 小学校でITを活用したいという政策立案担当者の皆さんを前にコンピュータ・ソフトのベンダーが「授業を行う先生達のために研修を提供したい」と申し出た。返ってきた答えは「年間100種類もの報告書を書かなくてはならない先生達に研修を受けている時間はない。」

 報告書減らせば? と思ったが通訳者に発言権はない。ついでに言えば英語の前に日本語をしっかり話せるように教育して欲しいと、ほとんどの通訳者は思っている。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2012年12月号掲載)