ゴールインのイン

 プロ野球のシーズン開幕 opening に向けてオープン戦 exhibition games が目白押しだ。良い選手がどんどんメジャーリーグに進出して国内が寂しくなるかと思えばあに図らんや、ちゃんとスター選手が現れて盛り上げてくれる。今年も注目のルーキーを追ってマスコミ the media がキャンプ spring training に殺到している。

 キャンプが始まったりそれに参加したりすることを「キャンプイン」と表現しているが英語の in は前置詞であれば名詞の前に付くし、副詞であれば動詞の後に来るので camp in は単独では成立しない。このインは「入る」という動詞の地位を獲得したユニークな和製英語なのである。競争馬がゲートに入ってスタートに備えるのはゲートイン、カーレースでタイヤ交換のためピットに入るのはピットイン、テニスなどでボールがネットに当たってから相手コートに入るとネットイン。電話に直接通じるダイヤルインという方式があるが英語では direct dialing だ。

 また「始める」の意味を持たせた応用版もある。ある電気通信関係のプロジェクトで日本側はサービス開始日のことをサービスイン・デイと呼んでいたが英語では in-service day だった。映画の撮影を開始することをクランクイン、完了することをクランクアップと言うのは昔の撮影機のハンドルを回し始めたり止めたりするところから来たらしい。ところが英語で crank というと、同じく時代は古いが撮影機よりも自動車のエンジンをかけるために回すハンドルが連想されるので、かえって crank up の方が勢いよく開始するニュアンスが強かったりする。
 
 野球は間もなくシーズンイン。ファンはひいきチームの選手がホームインする score / cross the plate 姿に声援を送る。今年はどのチームがペナントを制して一位でゴールイン finish するのだろうか。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2011年3月号掲載)

「甘い」は甘くない

 医療政策に関するセミナーでその道のカリスマ的権威が冒頭の挨拶に立った。来賓の挨拶と言えば短い原稿が出て、ほぼその通り読んで下さるのが常だが、そこはカリスマ、一筋縄ではいかない。蕩々と持論をぶち上げ5分の予定を大幅に超過し、主催者が遠慮がちに「先生、そろそろ・・・」と割って入るまでほぼ20分間エネルギッシュに語り続け、終わると聴衆から喝采を浴びた。実に幅広い講話の中ではこんなこともおっしゃった。「生活習慣病の治療に医者や薬が必要なのは甘い生活から抜け出すのが難しいからだ。」

 「甘い生活」と言えば1960年フェデリコ・フェリーニ監督の何とも救いのない映画のタイトルで当時の欧州では流行語にもなった。The Sweet Life という英題もあるのに、原題が一般名詞化した la dolce vita や、英語と折衷の the dolce vita がセレブっぽさを出すのに使われたりする。

 このように出自が明らかなのは助かる。「甘い」は通訳者が英訳に困る言葉の一つだからだ。「酸いも甘いも噛み分ける」 ”can tell the bitter from the sweet” のように味覚の甘さをそのまま使える例は少数派。「脇が甘い!」を armpit が sweet だと直訳できると思う人はいないはずだ。 ”Don’t lower your guard / defense!” など、状況に合わせた表現を選ばなくてはならない。「甘く見ないでよ」は ”Don’t underestimate me!” あたりだろう。

 本来の意味から派生して新しい用法が生まれていくことを意味拡張 semantic expansion と呼び、文化を背景に結構好き勝手な方向に発展するので sweet と「甘い」の距離はどんどん離れていく。娘に甘過ぎる父親も indulgent/permissive であって sweet ではない。と言うのも ”He’s so sweet” というのはとてつもなく親切だったり、場合によってはイケメンだったりする時の最上級の褒め言葉だからだ。
 
 言われてみたい? ”You wish!” 「甘い!」

(「毎日フォーラム 日本の選択」2011年2月号掲載)

チャージするものしないもの

 ビニール袋、ペットボトル、クレジットカードを英語にする時、共通する単語は何でしょう? 答えは plastic。それぞれ bag、bottle、money をつければいい。素材がどんな組成であるのか、アメリカ英語では気にしない。つるつるした樹脂系の物は全部プラスチックなのだ。クレジットカードの利用が増え始めた頃には、 plastic society なる言葉も生まれた。

 最近では plastics カードにも色々な種類があるが、ICチップ搭載のスマートカードは単に chip card と呼ばれたりする。Suica や Pasmo のようにあらかじめ決まった金額を入金して使うカードを総称して stored value card と呼ぶが、その入金を「チャージする」と言うのは、きっとバッテリーなどを充電するように減ってきた金額を補充するイメージから誰かが言い出したのだろう。英語としては正しくない。

 支払いレジ cashier で “Cash, check or charge?” なんて早口で聞かれてまごついた経験はないだろうか。「お支払いは現金、小切手、クレジットカードのどれになさいますか?」つまりこの場合の charge はクレジットカードの口座に請求することを指す。宿泊先のホテルでの食事を部屋につけて欲しい時 “Charge it to my room” と言ったり、何かを無償で提供するのではなくお金を取りたい時などに “I want to charge for this service” のように使う。

 Suica で出来るオートチャージ auto-charge の方は自動的にクレジットカードの口座に請求されて決済されることだと解釈できないこともないが、普通は毎月同じ日に行われる口座引き落としのことを指す言葉だ。カードへの入金は reload とか replenish と言う。

 お金が絡まない charge の使い方もある。 “I want to charge him with battery” 「暴行で告訴したい」となると少々物騒だが、野球の応援などでよく使う “Charge!” と言うかけ声は「行け~!」という励ましだ。新たな年を迎えた日本も、もっと元気になって欲しい。

Charge!

(「毎日フォーラム 日本の選択」2011年1月号掲載)

Can you slurp?

 午後一時半くらいにランチョン・ミーティングでの通訳を含めた一本目の仕事を終え、次の現場に移動する途中、腹ごしらえをしておこうとたまたま目にとまったラーメン屋に入った。時間も時間なので店内は空いていて客は3組くらい。通路を挟んだ向かいのテーブルは女性のおひとり様だ。彼女の席にラーメンが運ばれて来る。人の食事風景をまじまじと眺める趣味はないので、私は午後の資料に目を落とした。

 数分後、とてつもない違和感に襲われて彼女に視線を戻した。最初はその正体が分からず当惑したが、やがてはたと気が付いた。その女性はいっさい音をたてずにラーメンを食べていたのである。

 食を巡るマナーは多様だ。中国では出されたものを完食したら「足りなかった」の意味でホストに気を使わせてしまうそうだし、韓国ではご飯茶碗を持ち上げて箸で食べてはいけない(テーブルに置いたままスプーンで食べる)。欧米ではスープは音をたてずに eat 食べるものだし、パスタをずるずるとすする slurp なんてもってのほかだ。もちろん日本でも、スパゲティをすすり込んだりくちゃくちゃ音をたてて食べるのは大ひんしゅくものだ。

 ところがそば・うどんのたぐいやラーメンは、ずずずっとすする。上手い落語家が手ぬぐいをどんぶりに、扇を箸に見立ててそばをすする音を聞くと、見ているこちらまでお腹が空いてくるではないか。音も含めておいしさが構成されているのだ。美味しそうに食べることも立派な食事のマナーだと思う。

 ある通訳仲間の夫はフランス人だ。日本に長く暮らしている彼の好物の一つがラーメン。「じゃあ、家族でラーメン屋さんに行ったりするの?」と尋ねたら「私は絶対一緒に行かない」という意外な答えが返ってきた。「ラーメン、嫌いなの?」「ううん、大好き。だから一緒に行くのは嫌なの。だって、音たてないで食べるのよ。不味そうで許せない!」

(「毎日フォーラム 日本の選択」2010年12月号掲載)

ノーベル賞を巡る日本語の冒険

 今年は2人の日本人科学者がノーベル化学賞を受賞した。これで1949年の湯川秀樹以来、日本は18人のノーベル賞受賞者 Nobel Laureates を輩出したことになる。そのうち2008年物理学賞の南部陽一郎博士は49歳で米国籍を取得しているので正式にはアメリカ人受賞者にカウントされるが、受賞対象の研究は日本時代に行われた。

 隣国中国では民主活動家の劉暁波氏が平和賞を受賞した。かの国の検閲によってその公式な報道はいっさい無い。それでも中国伝統の「小道消息」口コミで、多くの国民が本当はそのことを知っている。しかしネット掲示板への書き込みも厳しく監視されているのでそのことは書けない。そこで、何故日本人は受賞できて中国人には出来ないのか、と言う議論が沸騰したそうだ。結論は「関係当局の責任」。

 2年前、南部博士を含む4人の日本人がノーベル賞を受賞した時、もう一つの隣国韓国でも同様の議論があったと聞いた。さまざまな分析がなされる中、韓国日報のコラムは日本の豊かな翻訳文化が背景にあると指摘。公共放送KBSテレビも韓国内の英語熱を取り上げたドキュメンタリーの中で、日本の科学者は翻訳により国際的な学術にアクセスできたと説明している。韓国の大学では物理・化学・数学などの基礎科学は翻訳せずに英語のまま学ぶため、それらの主要なコンセプトがすとんと腑に落ちない。つまり、イノベーションにつながるような深い思索が出来ないのだという。

 学生時代に翻訳のアルバイトをしていた会社に、インターナショナル・スクール出身の同僚がいて、バイト仲間は一様にバイリンガルの彼女を羨ましがっていた。そんな彼女がある日ため息をついて漏らした言葉を私は今でも忘れられない。「英語も日本語も中途半端で、私には哲学が出来ないの。」 日本の科学者達は幸運にも、それぞれの領域で好きなだけ深く、母語で哲学が出来たからこそ、大きな成果を残せたのだと思う。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2010年11月号掲載)