酉年と鶏

「トリドシのトリってどんな漢字だったっけ?」という問いに「サンズイのない酒」と答えて大受けしたのは普段から酒豪で名を馳せる同業者♀だった。そう言えば年賀状では当たり前のように使っているが、十二支の漢字は読み方の動物とは関係なさそうなのによくまあこれだけ定着したものだと感心する。酉はそもそも中国の暦法では「ゆう」と読んで方位であれば西を表し酒を入れる壺のような容器を表す文字だと言われても、もう奥が深すぎて訳が分からない。鶏の要素がどこにもないのは庶民に普及させるために動物を後付けしたからだそうだが、これは残りの十一支も同様。

酉年を英語で言うなら year of the rooster と伊藤若冲が描いたような堂々としたとさかと尾羽をもった雄鶏にする。というのも chicken には臆病者という意味があるからだ。チキンレース play chicken も負けた方を腰抜けと揶揄したネーミングだ。「おどおどしない!」とちょっと厳しく励ましたい時には Don’t be a chicken! と言ったりする。

ところで日本では鶏と言えば過ぎた話で申し訳ないがクリスマスの定番。I had chicken for Christmas. とこの場合は無冠詞。うっかり a chicken としてしまうと羽も頭もつきっぱなしの「一羽の鶏」にかぶりついているおぞましい様子をイメージされかねない。

どうしてこの日にチキン?と常々不思議に思っていたら、あのKFCのマーケティング戦略だったと聞いた。バレンタインのチョコレートと同じで私たちはこういうのに乗っかるのを楽しむ国民のようだ。

本家欧米のクリスマスにも伝統的な料理はあるがチキンよりはターキーが主流だ。七面鳥は北米原産だがアメリカでは11月最後の木曜日の Thanks Giving Day に焼く家庭も多い。一方英国では8割の家庭がターキーなしのクリスマスなんて考えられないと思っている!と、先日仕事をしたイギリス人が力説していた。なるほど、食の文化は家禽には飛び越えられない太平洋や大西洋をやすやすと超えてその姿を変えるのだ。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2017年1月号掲載)

ガラスの天井

最も高くて硬い glass ceiling をヒラリー・クリントン氏は再び割り損ねた。民主党の指名を得られず少なくとも1千8百万のひびは入ったと支持者に感謝して以来8年越しの思いは、米国民の格差への不満という壁を突破することができなかった。

女性の昇進を阻むシンボルとしてガラスの天井と言う言葉が初めて使われたのは1984年、その2年後には Wall Street Journal でも取り上げられるなどして浸透していったようだ。その存在に気付かずに出世の階段 corporate ladder を登り続け、ある日それ以上進めなくなる。すぐそこに見えている次のポジションにどうしても手が届かないもどかしさが良く出ている。

日本の現政権は一億総活躍社会を唱えて女性の社会参画を後押ししたいとしているが、夫婦別姓やLGBT権利擁護への与党に根強い反対論には伝統的な男性観・女性観に縛られている感がありありで、女は腰掛け mommy track でいいじゃないのとの本心が透けて見える。一方民間では企業の社会的責任CSRの一環として diversity を標榜する動きが広がっている。外資系ではLGBTサポーターバッジを配布したり、日本企業でもインクルージョンやワークライフバランスなどをサイトで前面に押し出しているところも出てきた。

そんな会社でもいざ役員会の通訳で駆り出されてみると会場はネクタイとスーツで真っ黒けっけで「看板に偽りありじゃん」 Hey! Walk your talk! と突っ込みたくなることもしばしばなのだが、そもそも女性活用 women’s empowerment 大国である北欧諸国だって実は上層部の女性はまだまだ少ない。世界に先駆けて国会議員に次いで企業の役員にもクォータ制を導入したノルウェーでさえ大企業の女性CEOの割合は5%に達しない。一朝一夕に変わるものではないことが良く分かる。

ただし役員全体に占める女性の割合は35%を超え日本の3.4%とはケタ違いであることだけはノルウェーの名誉のために付け加えておこう。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2016年12月号掲載)

通訳業界テクタム

ある芸術祭の開会式で海外から参加している過去の受賞者が一言ずつ挨拶をするというので、日本語はパナガイドという簡易装置を用いた同時通訳で英語に、英語の発言は逐次通訳で日本語にすることになった。「同通はパナでぇ、逐通はこちらのマイクでぇお願いしまぁす」と言うイベントディレクターに分かりましたと頷きながらも違和感を禁じえなかったのは彼の話し方ではなく「逐通」という聞き覚えのない略語だ。私たちも同時通訳は確かに同通と略すが、逐次通訳のことは「逐次」と言うので、業界の外の人が不自然な略語をぶつけてきたことに引っかかったのだ。

どのような現場でも通訳者が信頼を得る第一歩はお客様と同じ言葉を使うことだ。マテハンを material handling、マイコンを micro controller と顔色も変えずに訳せると喜んでもらえる。でも参加者の誰もがカタカナで言っている corporate governance を妙なこだわりで「企業統治」と言い続けると浮いてしまうし、いかに短くて言い易くて便利だからといっても製薬、化学薬品以外の業界で market launch に「上市」を使ってはいけない。勝手に略語を作るなど論外なのだ。

ちなみに通訳業界にも特有の表現が存在する。中でも「耳」の使い方は飛びぬけて変だ。パネルディスカッションを控えた通訳ブースの中では通訳者同士がこんな会話をしていたりする。「彼の手元に耳ある?」「無い。耳の用意遅い。」「あ、耳来た。でもてこずってる。だれか耳のつけ方教えてあげて。」通訳音声を聞くイヤホンのことだと知らなければ異様な会話だ。

エージェントからの通訳業務依頼書には「生耳」「耳なし同通」「パナ同通、耳あります」などと書かれていることがある。この場合は通訳者がイヤホンで講演者の声を直接もらえるアンプなどの機材があるかどうかを指している。なので、通訳者が「耳の取れる現場ですか?」と尋ねたり、現場で「あぁ~!耳欲しい!」と嘆息したりしていても、猟奇的な話ではないので心配はいらない。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2016年11月号掲載)

市場移転問題と通訳ブース

毎日のようにマスコミが築地市場の移転先、豊洲の盛り土問題で大騒ぎ having a field day していた頃、通訳者たちはもうちょっと遡り「マグロが切れない」問題を身につまされる思いで眺めていた。会議通訳者が同時通訳を行うブースにはホテルの宴会場などに持ち込める仮設と会議施設に作り付けの常設とがあって、後者は何やら立派に聞こえるが実は使えないものがとても多いのが私たちの頭痛の種となっているのだ。

いわゆる箱もの行政で作られたコンベンション・センターなどの常設ブースには時に想像を絶するものがある。通訳者は仕事中、講演者の顔と壇上のスクリーンに投影されるスライドがどうしても見たいのだが、それができないブースは思いの他多い。会議場の上の階から見下ろすように設置するのは良いとして、それがスクリーンの真上だったら、見えるのは講演者ではなく別に見たくもない聴衆だ。斜めに見下ろす位置のブースでは角度がついてスライドが読みにくい。さらに窓が妙なガラスで読みにくさ倍増の現場もある。ちなみにそこは出窓に通訳用の装置が載せられていてデスクがないので資料を広げられるスペースもせまいし、そもそも膝が入らないので体勢的に実に苦しい。通訳者という人間が使うスペースであることを前提に作られていないのが明らかだ。

複数言語用のブースがずらり並んだ施設で、奥のブースに入るには手前のブースをいくつも通り抜けなくてはならない現場もある。通訳中の同僚の邪魔にならないよう、その後ろを壁にびったりくっついて音もたてずに通らなくてはならないとなると会議中の移動がとてつもなく限られるわけで不便なことこの上ない。通訳ブースにはISO規格が存在し、アクセス、音響、空調、通訳者からの視野などが規定されているのに、そんなことも知らずに設計されているわけだ。そんな使えないものを作っておきながら実績表にはどこぞの国際会議場を設計しました、と偉そうに書いている人がいると思うと実に腹立たしい。

空間だけ作っておけば良いわけではないのだ。使える functional 施設を作ろうとするならば、まずユーザーであるマグロの仲卸や通訳者、通訳設備のエンジニアにどんな機能が必要なのか聞いてほしい。知らないことは知らないと認め、知っている人に尋ねるのが本当のプロだと思う。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2016年10月号掲載)

「思いました」を考えてみた

「その時ね、思ったんだよ。俺、富士山に登りたいって!」と、熱血漢の彼は言いたかった。でも残念なことにそれを英語にした途端、その熱いメッセージは大きな変貌を遂げた。 At that time, I thought I wanted to climb Mt. Fuji. 「その時の自分は富士山に登りたいのだと思っていた(のだけれど、実は違った)」つまり、今思うと、別にそれほど登りたかったわけではなかった気がする、と言ってしまったわけで、その場には微妙な空気が流れた。

日本語で強い決意を意味する「思います」は英語の I think … とは程遠いという話を前回はしたのだが、過去形になるとその程遠さ加減がさらに半端でなくなる。 I thought I wanted to win a gold medal. は「金メダルを取りたいと思いました」ではない。「その時の自分は金メダルを取りたいのだと思っていた(のだけれど、実はそうではなかった)」じゃあ、何がしたかったの?となってしまう。

Aren’t you getting a promotion? 「昇進するはずじゃなかったの?」 I thought so. 「そう思った(んだけど、思い込み?)」と思惑が外れた時にも頻出する。こんな具合に think の過去形 thought には過去においてそう思ったことが事実ではなかった、間違いだったという意味が付きまとう。そこで Did you think I was lying to you? 「私が嘘をついているとでも思ったの?」への答えは I thought so. と過去形にした方が無難だ。 I think so. だと今もそう思っている事になる。

もちろん別の意味もある。プリンタが故障してどうやら単なる紙詰まりではないらしい。「メンテに来てもらわないとダメみたいだ」 I guess I have to call for service. という同僚に「だよね」「そうだと思った」と自分の考えも交えて答えるときに便利なのが I thought so. だが、ちょっと間違えると自分はとっくに分かっていたよ、という嫌味に聞こえることもあるので言い方には少し注意が必要だ。

(「毎日フォーラム 日本の選択」2016年9月号掲載)